kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

申請手続き

 

「三回ほどいらしていますね。記録に残っています」

 

コーゾーさんの名で役所の福祉課に連絡すると、そう言われた。

 

記録とは、生活保護申請の相談にコーゾーさん夫婦で出向いた回数。

高齢夫婦で一人は左半身不随の障害者、生活費はわずかな年金だけになっていた。

コロナ過で体調も崩し、更に追い詰められていた。

八十も超えた年齢で、ずっと税金も払ってきて、国の福祉に頼るのは当然のことだと思うが、3回も相談しなおしていたのはどういうことなんだろう?

 

「最初、脳梗塞で障害者になったときにね、家賃の控除申請しに行って、絵を預けていたトランクルームは解約しないとダメって言われてね それに使うお金があるのなら、控除は必要ないって言って…とにかく、役所は絵描きなんか認めてはくれない…」

 

それでコーゾーさんの家の中のカオス状態は始まる。

間取りの三分の一がキャンバスに埋まることになる。

 

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それは、生活保護とはまた違う話なんだけれど、コーゾーさんの感触として、国の福祉機関は絵描きを公的な個人職業で無く、私的な事と認識されているので、その様な内容に公金を使わせる訳にはいかないと宣告されたと感じているようだ。コーゾーさんの感触として。

 

「なんだかね、だんだん話しているのが嫌になっちゃうんだよ。絵描いてたって、もう将来が有るわけじゃないでしょ、みたいに言われて…申請も決まりそうになってるんだけど、取り下げて帰ってきちゃったんだよ」

「ふーん…ふふふ…まぁそれで先のある若い表現者にボンボン奨学金出しているって話も聞いたことないけどね…」

 

お役所への皮肉を言ってみても、コーゾーさんの慰めにはならない。

「置き場所が無いのなら、処分するしか無いでしょう」と言われているのと同じで、そこに意義を唱える人はおそらく文化的に日本では少数だろう。

役所に関わらず、日本の公的場所では売れない絵描きが部屋借りるのも大変な事なのだから。

 

よく海外で、使わなくなった郊外の倉庫の様な場所にアトリエを構えるのは、お洒落でやっていると言うよりは、実質的にスペースが必要な表現者が多いからだろう。これが逆に商品価値が上がろうとスタイルになろうと、まずは実質的な問題なのだ。

バイタリティも無いと開拓していけないような分野なので、自ずと熱が帯びて来るんだと思う。

最初に開拓者ありき。そして文化が受け継がれていく。

 

コーゾーさんが80歳を越えようが、死ぬまでその端くれに居るのは確かだ。

しかしイチ公務員に左半分を引きずった無名の老人のそこを読み取れ…は、まぁ無理なんだろう、法的な決まりとしても。

 

(昨今、決まりをルールと言いがち。ずっとなんか対等なプレイでもしていたっけ…?)。

 

もしもコーゾーさんが働ける身体で年齢ならば、即他の職業を紹介しますと言われるだろう。

あと数日後に個展を控えていたある有名漫画家さんが、住むところも失ってしまって生活保護を申請しようとしたところ、

窓口では絵描きは辞めて他の仕事をしないさいと言われていた。

もちろん、個展はダメである。その資金がある人に生活保護は出せない。

住むところが無いけど、理屈としてはそう言う事になる。

 

彼ら役人に罪はない…じゃあ、何が罪深いんだろう?

まぁ、金を持っていない本人が罪深い、好きな事してフラフラして…って文脈で機能された法律なんだろう

 

みんな我慢して働いているのだから

(インフルエンサーが異議を唱えそうな言い方はワザと)

 

だから、結果的にぞんざいな扱いは受けるだろうな…と予想はしていたが、

それでも三度も身体を引きずりながら足を運んでいたというのは、

本人たちも耐えながら意地を見せながら、保護の話を進めようとしていたのだ。

 

とにかく限界なのだ

 

「申請に必要なもの、ここに書いているんだけれどね…」

 

奥さんが緊急搬送される直前に、やはりコーゾーさんは自分で電話したそうだ。

広告紙の裏に生活保護申請に必要な書類が、独特の書体でメモしてある。

コーゾーさんの字は、ヒョロヒョロしたところがない。

ササっと書くといった感じもない。いちいち力を入れている感じの書体だ。

片手しか使えないので、紙を抑えるのと文字を書くのとを同時にやっているとそうなるのかもしれない。

 

見ると、ザっと十数種の書類をそろえないとならない。

まずは奥さんの、深刻な病状の医療環境を整えるためにもできる限りの福祉、公的機関は利用しなくては。

親族だって支えられない。

夫と妻、それぞれの血の繋がらない子供達がここで初めて集まる事となった。

何がどこにあるのかわからない部屋から、総出で書類を一つ一つ揃えていく。

 

再び、この日記のルールをもう一つ立てる。

コーゾーさんの奥さんのお子さん達、つまり私の義理兄妹となる方々の事もなるべく触れるつもりはない。

その理由は、奥さんと同じ。

ルールに沿う形で私たち義家族の状況に一つだけ言える事がある。

多数で手分けできる事は、とても助かるし支えになる。

逼迫していた状況を動かすのに役割分担は多い方が良い。きっと、兄と私だけだったら時間的にも精神的にも潰れている。

昔ながらの大家族の機能は無く、むしろその逆の家族構成であるコーゾーさん夫婦とその子供達は、何故か形態が大家族のようだ。

おまけに、義兄弟に子供の頃からのイザコザは無いので、引きずる家族間感情も無い。

公的機関のような第三者の関与でも無く、身内だけれど馴れ馴れしくもない。

今まで、想像に無かった連帯。

感じ良く接してくださっているのが、一番うまく行っている理由かもしれない

 

高齢化社会に新たな対策になりゃしないだろーか...

なんて考えながら、だからってコーゾーさんのやり方を誰かにお薦めするわけでは無いけれど。

 

コーゾーさんが再婚してから、二人の生活なんだから…と、私と兄は距離をとっていた。

再婚当初は母も生きていたし、兄も私もそれぞれの生活の厄介ごともあって、手を取り合って新たな生活を始められる人の事に気を置いてもいられなかった。

両親がお互いで最終的に離婚を決断したとはいえ、コーゾーさんと母を平等に見ることは、もちろん出来なかった。

 

母がコーゾーさんと別れずに居たら、幸せになれたかはどうかで言えば、なれやしなかっただろう。

残された母には、そう言って慰めた。

コーゾーさんと暮らすのは大変な事だろうと私も兄も思っていたので、

「パートナーになる方には、申し訳無い」ぐらいの気持ちもあった。

 

コーゾーさんは、自分の自由を選んだのだし

 

つまりはこの後どうなっても自己責任だ、と、どこかで踏まえてコーゾーさんの再婚を受け入れていたんだと思う。

…が、それもそれでいい歳した者の態度としては未熟なもんだ…

 

コーゾーさんが脳梗塞で倒れた時、母は「あの人もツイてないわね、せっかく生き直そうとしたのに」と言った。

私は母に「もう、赦してあげなよ お母さんは孫に会えるんだし…」と返した。

母がコーゾーさんの不幸を望んでいるのがわかったので、そう言った。

母は、この時どんな顔をしていたっけ?特別何か反応はしていなかったと思う。

その夜、急に癇癪をおこして何かよくわからない事をがなりながら、写真をハサミで切り始めた。

「何しているの?」覗き込むと、自分達の結婚披露宴の写真の、コーゾーさんの部分だけを切り取っていた。

「これをあの人に渡してちょうだい!」

と、それらをビニール袋に入れて渡された。

私は黙ってそれを受け取った。母はそれから…どうしたっけな?

泣いていただろうか、大人しくなっただろうか

よく覚えていない。

一緒に帰省していた子供達が「ばあちゃんどうしたの?」とビックリしたので、誤魔化しながら寝かしつけた。

 

母のこういう癇癪は、私は慣れていた。

母にとって、結婚・子育てはこんな感情の連続だったから。

「赦せ」なんて、かわいそうな事を言ってしまったんだろうけれど、

母と一緒になってコーゾーさんの不幸を願うのは上辺だけでも願い下げだった。

こういうのは、引き継がせてしまうから。

あなたの見捨てる気も無いが、怨念はあなたの孫にはやらない。と、思った。

 

 

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ヒステリーの発作の様な出来事の後、これといって私たち母娘はぶつかる事は無かった。

母は少しずつ穏やかになっていった。

寂しさを、受け入れるように。

しばらくして、戦後少女時代にほんの数年過ごした佐世保に行って来た。と、話していた。

「何年も連絡してなかったのに、昔の住所を頼りに連絡をしたら、yちゃんすぐ帰ってこんねみんな集めるから、って言ってくれたの」と、

暖かい同級生の反応にほんとうに嬉しそうだった。

母の離婚の傷を癒してくれたのは、少女時代の思い出がある佐世保の土地と、同級生の方たちだ。

それから何度も佐世保に足を運び、東京に暮らしている仲間とも東京で集まって食事会をしていた。

少し少し、何かに助けられていく。

まだ、大丈夫。…大丈夫。

 

母は、私の話を楽しそうに聞いてくれる様になった。

子育ての不安や愚痴や誰かの悪口も、私たち母娘は笑い話にして話した。

あまり深刻な話はしなかった。

何しろ心配性なので

神経質な元のところは何も解消されてはいなかった。本音はもっともっともっと誰かに吐き出したい事があったかもしれない。それを吐き出しそびれさせただろうか⁈

先が十数年しか残されていないとは、まだこの頃、想像していなかった。

母は結局結婚してから「身体が元気になった」と言う事が一度も無く、すごいスピードで衰えていった。

 

母が亡くなった後、雑に保管されていた写真を預かってアルバムに貼り直した。

自分の生まれる前はよくわからないが、一応年代順になるように並べて、

結婚式の残されていた写真と一緒に、切断された片側を貼った。

もう片側は、永遠に無い。

 

 

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こちらは新婚旅行のスナップ。場所は不明。

 

 

 

 

 

「出た大通り、降っていくと十字路あるでしょ?」

「はい…あぁ、はい、あります」

「その十字路、ちょっと超えたところに何だか独特な建物あるのよ」

「はいはい」

「あそこがね、市でやっている相談センターなの。お節介だと思ったんだけど、よかったらちょっと行ってみて」

 

奥さんが病院へ搬送されるときに付き添ってくれたご近所の方が、そう声をかけてくれた。

地域の高齢者向けの相談センター。

行ってみると独特というか、あんまりそれっぽく無いというか、イメージに反してモダンなんだけれどどこか薄暗いというか、その薄暗さが「無駄な電気は使ってない」公的機関っぽさの建物だった。

 

ここで面接してくださった介護士kさんに、テキパキと生活保護介護保険申請の指導を受けた。

 

介護保険が降りるのは、今から一ヶ月以上はかかるんで、まずは生活保護申請に行ってください」

「窓口に直接本人が行かないとならないみたいなんですけれど、私だけじゃダメですかね?」と、kさんに尋ねる。

「うーん、本来はそうなんですけど(コーゾーさんを見ながら)行くの、大変よね…」

「そうなんだよなぁ…最初は夫婦二人で来いって言われて、妻は起きられませんって言ったら、じゃあ…ってんで、僕だけで…って、それも大変な事だけれど…でもこの間まで駅の近くに出張所で取り扱ってくれてたのに、八王子の市役所まで来いって、コロナで生活保護受ける人増えたから、出張所じゃ人手が足りなくなったんだなぁきっと…」

 

コーゾーさんは騒がしくは無いけれど、よく喋る。

で、たぶん本庁に窓口が統一されたのは、コーゾーさんの言う通りの理由なんだろう。

 

後で要介護認定が降りた時、kさんが担当してくださるケアマネージャーの方に

「コーゾーさん、左半身動きませんが、いろんな事自分でやっていますよ。根性の人ですよ」

と本人不在の席で説明してくださっていて、社会的な評価で褒められた事がない自分の父親に不思議な気持ちになった。

 

困った人であり、根性の人なのか…コーゾーさんは

 

根性の人と言ったら、コーゾーさんの奥さんも相当な根性の人だし、

細かくは書いていないが、私の母も根性の人だった…

 

義兄弟とも「うちらの親世代はかなり我慢強い」と話す

 

それは日常に溶けてしまって、今更言葉にされていない

グッと我慢して試練に立ち向かうけれど、そこにエキセントリックさは微塵もない

そして、この我慢が老と比例して社会的に自立できるわけがない

福祉システムの対応に、彼らだけでは無理だ

ここ数日の手続の実感がそんな事だった。

 

高齢化はまだまだ進むと反比例して面倒を見れる力がこの先さらに減少する

もうすぐ自分の番が回ってくるんだろう。その時、コーゾーさんほど私に根性があるだろうか…ある様には思えない

 

我慢して我慢してそのエネルギーは何処に溶けて入ってしまうんだろう

 

コーゾーさんは今、家にいない

その間も、子供達は部屋の片付けを続行していく

 

家主のいなくなった公団の高層階の部屋に、

太古の紋様のキャンバスが無口に整理されてく

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