kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

ラスト ブログ「あのコは加工肉が好き」

あのコは加工肉が好き 数字遊び ④

 

ブログ~数字遊び~のシリーズは、今回で最終回

森有正の用語で使いたいものがある。

「現実嵌入」という。

日本語は非常にユニークな言語である。どういうふうにユニークか?一言でいえば、日本語は語る人と聞く人の二人で具体的な関係の中でしか成立しない。『映画未満 ⑤章』より。

日本語をパリで教える事によって、言語を客観視し、森有正の日本語への気づきはある。

日本語は相手で言い方が変わる。ここが外国言語との違い。

誰に対しても「俺」や「私」や「僕」と言う訳でもないし、誰に対しても「あなた」や「お前」や「君」と言うわけでも無い。

関係を当てはめて、その現実が現れる。(それが上でも下でも)相手に合わせて成立する。

森有正は、それで日本語が劣っているというのではなく、ユニークだと言っている。

で、『映画未満』では、この関係(二人称)の中で成立している言語は、プライベートな関係に入れない時、よそよそしく感じるという。

それは、日本語にパブリックというのは成立するんだろうか?という疑問を立ている。

言語は我々の感性の裏づけである。おそらく、日本の二流評論家ほど「リアリティ」という単語を多用する人種もいないだろう。実はリアリティとは、相手とプライベートな関係に入れた時に感じる慰安の状態が基になっているのだ。リアリティというのは好き嫌いとさして違わないのだ。『映画未満 ⑤章』より

 

確かに、やたら「リアリティを追求する」とか「リアリティのある」とか言う評論家は多いが、それは「リアル」が現実とか真実、客観を絡めたパブリックな感覚を想定して使ってきている感じだ。

実際はその逆で、かなり接近している私的感覚に近い言葉であっても、何故か日本人は公的な客観視だとニュアンスで解釈してきているところがある。

よくインタビュアーが対象にプライベートまで接近し、聞き出し垣間見える「素顔」が、日本人の「リアル」でもあるかもしれない。

石子順造は「私的(プライベート)」と「公的(パブリック)」に分けて、「戦前・戦中の日本人は「私的」か「皇国民」かに内面は分裂していて、公的な個人が無い」と言っている。

老若男女、どんな立場だろうが変わらず一人称が「I(アイ)」では無い日本人という指摘に、石子の気になっていた事は近いかもしれないが、彼はそこからキッチュ論に流れて日本人を考えている。

 

「とても変わった手紙」は、日本語の中でだけ成り立っている一人称にヒントをもらった。

手紙を書いている「僕」は一般的に男言葉だ。標準語の中では。

今は女の子でも「ボク」というコは居るようだけれど、そこは別に意識していない。

というのは、あくまでも【関係性で読まれる】という事を探りたかったからだ。

それと、人は他人の性と個人をどういう風に捉えているのかも気になっていた。

更に厳密に言うと、男言葉である「オレ」は地方によっては女性も使う場所もある。長い内戦の歴史で、日本には多様な方言がある。

方言の数は「地方の数」というより、その時代の「国の数」で、これだけでも結構特殊だけれど、ここもテーマには入れなかった。

 

あともう一つ、『アフガン零年』(原題「Osama」)というアフガニスタン映画にもインスパイアされている。女性が一人で出歩くことを禁じられたタリバン政権下、男手を失った一家が生活するため、少女マリナが少年になりすまし働きに出る。

女とバレた彼女は捉えられ、宗教裁判にかけられて、そのまま家に帰ることが出来なくなってしまう。物語は少女が男装した実話を基に描かれている。

日本語は、相手が誰であるのか混乱した場合、どうなるんだろうか。

ネット社会での【関係性】や【現実】とはいったい何だろうか。

ルールのよくわからない数字ゲームの中に気付かず入ってしまったようだけれど、私はここからどうやったら出れるのだろうか。

いや、出なきゃならない。

そう思って書いた。

結構、いろんなことを賭けている。

 

私はカトリック信者だけれど、ネットの中でそれがわかると、性的に攻撃してくる人がいる。もちろん、あからさまにはしない。遠巻きにする。

性的な攻撃をしたがるのは、たぶんキリスト教の中の純潔に対し、(信者である私以上に)その人が反応している感じがする。

にっかつロマンポルノ時代の映画ポスター画像をタイミングをみてSNSに貼り付ける。

カトリックのシスターが、下半身を出して欲情している映画だった。

見て、笑ってしまった。

何故ならその日はちょうど2月5日。

豊臣秀吉の命令によって26人のキリスト教徒が処刑された日だからだ。

キリスト教の信仰を理由に最高権力者によって処刑が行われたのは、これが初めての記念すべき日に、その人は関係性がよくわからないカトリック信者を挑発したがっている。

 

まぁ、その人はこの処刑は知らないだろうが、彼も虐殺社会の血は引いているんだなと思った。

 

それは私もね。

 

文化の犠牲者の陰で生き延びてこれなければ、現代も無い。

たぶん彼自身の挑発の根拠は、欧米の性解放運動に根差していると思っているのかもしれない。

それが、表現の自由だと。じぶんは、その文化の子孫だと。

無邪気なもんだけど、あからさまにそう指摘したらその人は怒り出すかもしれない。

精神分析的にこれを捉えないで欲しい

その挑発は、古代から来ているわけじゃ無いし。

今現在の、成長したその人の在り方だ

最近、露出的なファッションをしたある韓国人女性DJが、ライブ中に日本の観客からセクハラを受けたと訴えて話題になっている。

フェミニストの味方の男性たちは、彼女の味方だ。もちろん、私も彼女の味方だ。

それはまぁいいとして、ところでこの日本男性たちは、修道女の童貞に関して同じように擁護してくれるだろうか。

なんとなく、否定しそうだと思っている。

西欧の性解放運動のライバルは、もともと教会の童貞観にもかかっている。

これが、女性の自由を奪ってきたから。

日本の新左翼はストリッパーや売春婦たちの人権を訴え、なかばその職業を神聖視しがちだったが、彼らは時より自分もまるで西欧の歴史の中に居るようだった。

世界の家父長制が同じでも、日本の教会に関する歴史は違う。

禁教令時代に捉えられたキリシタン女性の中には、犯され者も居たと思う。

転びバテレンたちは、転んだあと数日間売春婦と一緒に牢屋に入れられた。

 

こういうのは、戦争中の性暴力と似ている。

 

人権を守るのはいいとして、性的に露出のある女性を擁護するために、自分の意志で使徒職についた女性を現代だって差別してもいいわけではない。

政治的なフィルターで誤魔化されやすいが、露出のある女性にセクハラする輩と、修道女の貞操を失いたい輩と、なにか違いがあるのだろうか。

他者を自分の思い通りにしたい欲望と、表現の自由は=じゃない。

そう思っている自身を曝け出しせたとしても、そこに必ずしも相手との関係性が有るわけでは無いという事実は、頭には入れて置いて欲しい。 

たぶんその人の状態は孤独に近くなると思うが、あえてそれを見せたいのなら、すればいい。

モラルは意識の上では認識していても、ひょんなタイミングで崩れて人間の暴力が丸出しになるのは、わりと日常的なのかもしれないな…と思っている。

日本では、キリスト教徒女性は一般女性と同じだと見なさないのだろうか?

全員、修道女に見えるんだろうか? 

それはつまり、性的に閉ざされた生き物だと?

 

奇妙だ

 

その人自身の、他者を思い通りにしたい欲望がキリスト教というライバル・アイコンで隠せるとお思いじゃなかろうか。

人は結構、そうやって欲望を隠すのだ。

 

1974年、ナポリのスタジオモーラで行われたマリーナ・アブウィッチのパフォーマンス「リズム0」は問題作であり、今も人間の集団的欲望に関して問題定義を示している。

72のアイテムを前に、彼女は観客に次の様に伝えた。

「テーブルの上のは72個のオブジェがあります。希望に応じて私を利用することが出来ます。 私はオブジェです。

この期間では私が全責任を負います」

はじめは穏やかだった観客達は、一人がマリーナの服をナイフで切り裂き始めたところから変わり始める。

観客に首を切られその血を飲まれ、上半身を裸にされ鎖でつながれ連れまわされ、数人の男性に抱えられてテーブルに置かれ、銃弾の入った拳銃をつきつけられた さすがに他の客が止めに入ると観客同士で暴動がおこった。暴力が止まらない。

六時間後、マリーナが観客に向かって歩き出した時、全員が逃げ出して誰も彼女には近づかなかった。

作品「リズム0」の様子。

涙を浮かべているオブジェのマリーナ。

リズム(心音)は無いはずなので、その涙に気づく者が少ないのだろうか。

それはフランス革命時、ランバル公妃に対して民間裁判後の民衆が行った公開処刑の記憶を呼び起こす。

私は民主運動に反対ではないし、王室制度に賛同もしていない。

が、ランバル公妃の胴体と晒された生首は、自分も同じ人間として、集団暴力の質と方向が「似ている」と感じる。

マリー・アントワネットと親しかった地味な性格の公妃は、プロパガンダによってレズビアンのチラシも作られていたそうだ。

その噂から、マリー・アントワネットに公妃の生首に見せようと王妃が幽閉されているタンプル塔へ向かった殺人者たちは、「王妃に首へキスさせる」とも沸き立っていたようだ。

しかし塔内への持ち込みは許可されなかった

この時代の彼らは、たぶんほとんどカトリック信者だろう

王室と親しかった教会はやはり暴徒に襲われ、修道女は犯された

マリーナ・アブラモヴィッチ作品「リズム0」が作品として完結しているのは、最終的に集団暴力を殺人からではなく、マリーナがオブジェから個人に復活したショックから解消させたからだろう。

参加は事件を含んでいる危険な作品。表現者として、マリーナ自身にも深い恐怖と傷を残している。

彼女がハードなパフォーマンスに挑んでいた時代。

「リズム0」に参加した観客達の中で、最初の「全責任を表現者が負う」という契約に、自分は騙されたと感じた人は居なかっただろうか?心配になる。

そんな精神状態にならなかったか?

作品での集団的欲望の経験と、そこから解放された現実の間でショックは受けているはずだ。それもそれで、個人的には気の毒にも思う。

0「無」というよりは、人によってはマイナスになっていやしないだろうか。

その人の人生で、それが無に帰せていることを祈ろうか

…最初の契約は、参加者を刑事責任からは守っているんだろう。

映画監督、小津安二郎の墓。「無」とだけ墓石には刻まれている。



アフガン零年」で、アフガニスタン政権下、【少女が男装する】とはなんだろう?

主人公のマリナが自分の髪を切り落とした時、思い出したことが有る。

第二次世界大戦敗戦後、民間の日本人が満州からの引き上げる際に、迫るロシア軍から身を守るため母親が娘の頭を坊主にさせた。女の子だとわかると犯されるから。

男手は無い。戦争に行ってしまったから。

何十キロも歩いて港へ向かい、夜眠るときは穴を堀りその中に娘を隠し眠る。実話である

守れた人は居たから、現在私はそのことを知れたのかもしれない。

死んだ者も沢山いた

こういう話は、娘を持つ身なので辛い

これはつまり、

帝国日本軍が暴力的に西欧の歴史さながらアジアを植民地化したときに、その国の娘たちは性的暴力に晒された たくさん殺されている 

フェミニストに賛同するフランス人男性が

「男に守られる、お姫様の様な女性ではなく、女も闘うべき」と発言しているのを前に聞いた

そう?闘ってきてません?あなたのお母さんたち

そんなお姫様みたいだったの?伝統的な社会構造すべてが? …ほんとうにそうだろうか?

単純に、社会的地位が無かっただろうけれど

生きるために闘っているが、なにか思想的な文脈や社会の英雄的な活躍をしないと、なんなら男にならないと、言語を持っていないと、「闘う女」の中に入れてもらえないのだろうか? 「男には頼らない」と、口をそろえて言っていれば良いのだろうか?

男性の土俵に上がった女性たちは「女のくせに」といじめられてきているが、【上がったから】ってところがどうも個人的に引っかかる

マリナのやり方もある意味、土俵に恐る恐る上がって、自身の生命力は怯えていった

それは何故だろうか 女で弱いから? 

大勢の中での1人という、暴力構造がすでにあるからだ。

 

彼女の作品は受難の人の姿を作り出した。

その暴力の一致の中に入ってしまうと、暴力は見えなくなると証明した

上の写真のマリーナの背後に居る客の笑顔は不気味だが、彼らは『自分たちが参加している群衆現象』を、まだ発見していない人たちだとも言える。

 

それは、我々の日常だ。

私たちは聖ペトロの様に、鶏が三回鳴くまで

自分たちの不実に対して『他の誰かよりもうんと免疫がある』と思い込んで、模倣暴力には気づけないのだ。

 

土俵が変わらないのは家父長制の構造よりもさらに、暴力構造が模倣われ、土俵に「上がれる人物」のコピーが、性別関係なく続き、変わっていない様な一面を感じる。

上がれない者のうっぷんも、相変わらずある。

人間の模倣欲望と熱狂は大きく変化していない

 

お姫様だって、実はみんなでギロチンにかけれたじゃないですか

王朝じゃないけど、王朝が反逆者という犠牲者を死刑にするやり方に方法は変わらなかった。

民主化運動の歴史に、ここは含まれなかった訳ではない 

 

あなたの言う「お姫様」は、お城のお姫様ってより、資本主義のお姫様じゃん?

おとぎ話を、どこで手に入れたんだろう?

人の貞操を自分の自由にしたいって欲望も、思想を隠れ蓑にしても相も変わらず出てくるわけだし…

 

日本語は相手によって変わる

現実が関係で嵌入する

「とても変わった手紙」の僕は、自分と誰だか知らない誰かの関係はなんだろう?とずっと思っている。 

あれは「僕は誰だ」ではなくて「誰だか知らないあなたは僕にとって誰だ?」と言う悩みなのだ

自分は誰だか知っているので、僕からわたしになったのだ

たぶん、そうは読まれなかった

「あんたは、これだ 馬鹿」や「性別よりも自分であって」や「思いあがるな自意識過剰」や「バカはほっとけ、人は人」や「これは大衆的じゃない」みたいな返答の痕跡は見つけた。

大衆的じゃないのは確かだ

だいたい、僕からわたし に変わってしまうカタリ手に対するは読者の方が、「あんた誰?」になる。未熟 終わり方も中途半端で焦っている。

そういう意味で自信は持っていないけれど、誰だかわからないあなたが決めている、わたしで居れる時間がもう限界だ 

そもそも大衆的って、パブリックな現実にどの作品も出ていく事が無かったのに

関係性が築けないが、欲望の対峙だけは色が濃いので、わたしはこのままそのライバル関係に飲まれるだろう

焦りすぎて、ルネ・ジラールに学んだことよりも、ドゥルーズの著書を主に参考にしている。ドゥルーズ精神分析の構造を批判した。批判したが、結局その構造からは出ないで狂気に向かった。「狂気を分析するな」という態度だとしても、それが構造に戻ってしまう。

自分もそんなような動きだったと思う。

 

ドゥルーズは、社会の中のマゾヒズムに目をつけていて、それがサディズムとの対峙ではなく掘り下げている。

俗にいうSMは、性的趣向が違うのではなくそっくり同士だという。この倒錯的世界ではなく、社会の中でマゾッホはサディストとは出会わない。それだと、真のマゾ的な事を見逃す。

虐待者のサディストが、マゾの望みなど受け入れるわけが無い

ルネ・ジラールも社会の中のマゾヒズムに気付き、そこから模倣の欲望や、聖に隠されてきた暴力に関する人間学を広げていく

 

自分の身体に戻りたい と、手紙を書いていた僕は言う

アフガン零年」のマリナも戻りたかったと思う

 

物語では、生理が彼女の身体を少年から女性にし、彼女の性は性虐待の世界に飲まれる

 

アフガニスタンタリバン派と政府・米軍との戦争対立は、女性の犠牲を強いていく

政府警察では、性奴隷として少年の拉致が堂々と行われる

米軍が見て見ぬふりをしたので、我が子をさらわれた者はタリバンに流れる

聖なる戦いの生贄である

 

「彼女が生理になった」って始まる物語を、去年他に書いた

物語が流れ、続く 

 

続くが、私の中の「数字遊び」の関係は終わっている

その関係が最初は頼りだったけれど、

本は閉じられている いろんな影響を受け教わった

長谷川集平氏は、東京でのアカデミックな作風から離れて長崎に移る

そんなわけで、長谷川氏の中でも「とても変わった手紙」は東京的作品なんだろう

私は、ネット的作品だと思う

長崎と東京でぶつかった訳でも無いのだし

『映画未満』は、長く絶版しているから、探さないとならない

どこかで、誰かがまた読んだらいいなと思う

その人の旅としても

 

その他の私の物語の関係も、はっきりしないまま、たぶんいずれは終わるだろう

私の知らないところで、誰かが出会うかもしれないが、可能性は今のところ低い

いまは公開していないから

 

なにかの拍子に、ある日顔を出すのかもしれない

今は、目の前の作品が優先で、未来はわからない

どこかでゲームも続くかもしれない

 

私はそのゲーム会場に

誰だか知らないあなたと

居れたことは、一度も無いのだ

 

現実として

それはとても、残念な事だ

 

「あのコは加工肉が好き」 は、まだもう少し、どこかで続く