kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

始め、数字はある本の「章」でした。章を何度も順番変えて構成し直して本の内容を頭に入れてたって話の ブログ「あのコは加工肉が好き」

あのコは加工肉が好き 数字遊び ③


好きな(お目当ての)数字を言ってみて下さい。

…3? OK

3は、「小津安二郎の正面性」

次……なんでもいい。ただ浮かんだ数字でもいい。どうぞ。

…7?はいはい。

えー…7は「テープレコーダー録音の雑音の多さ。僕らは選んで`聴いている`。機械の客観的音が現実なのか、それとも必要な音だけ聴き分ける主観的音が現実なのか⁈」

…ランダムに行ってみましょうか…数字と内容を結び付けといて下さい。

…9 「キュビズムについて」

…5 「森有正の`現実嵌入(かんにゅう)` について。誰でも学べるパブリックな場と、プライベートな関係に入る師弟関係」

…6 「現実は最初プライベートな場(二人の間)に現れる。では、パブリックな現実はありえるのか」

…2 「小津映画のローアングル。子どもの視線。正面性に固定されていたカメラがやがて上下左右、前後に動き始める」

…4「正面性のむき出し。黒澤明の3台のカメラ。モンタージュ理論より、カメラの前の現実が優先するという事」

…8「夏目雅子死亡。スター(それぞれのうぬぼれ鏡)を求めながら、実は自分のところまで引きずりおろしたい大衆。ハリウッドのスター・システム崩壊後のアメリカン・ニューシネマ。大スターは作らず、コマーシャリズムの中で生き延びるコツ。『パリ、テキサス』の制度上の親子や男女の安住」

…1「ポール・サイモン『それで、神が映画を創った』」

…90「『バード』チャーリー・パーカーの側に居たデイジーガレスピーの人生観の厳しさ」

…19「ゴダールのマリア

…42「クイケン兄弟による『バッハの無伴奏 バイオリン曲の夕べ』。バッハの自筆譜。ロマン派は奏者自身の物差しで、古楽奏者は作品の謙虚な解読者」

…35「『フール・フォア・ラブ』お話の中の宝探し」

…98「『ケン・ラッセルサロメ』。宮崎勤の残酷ビデオ」

…44「タルコフスキーサクリファイス』。日本人のタルコフスキー評で、‘眠い‘が多く観られるのは何故か」

…51「グレン・グールドのコンサート活動打ち切り。`コンサートの生贄`」

…57「住まいを追われる東京生活。『ロビンソンの庭』インターナショナルを気取った新しい地獄。囚われた自己陶酔」

…59「『ラ・バンバ』リッチー・バレンス、メキシコ音楽のロックンロール。ポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』について」

…67「『ゴンドラ』愛されたことの無い者の愛する難しさ。アンドリュー・ワイレスの『ヘルガ』」

…85「マザー・テレサのドキュメンタリー。チャリティーの和訳」

…47「フラジル人、モモコの話。『ミッション』『ジュリオの当惑(とまどい)』」

…49「パゾリーニアポロンの地獄』『テオラマ』『豚小屋』『女王メディア』『奇跡の丘』」

…72「『愛しのロクサーヌ』ラブストーリーのハッピーエンドと悲恋。叔父、浦山桐朗の死んだ夜に、僕は八ヶ岳の山小屋の絵本の集まりに居た」

…99「オイディプスは自ら盲人になったのは何故だったろう。映画は少し休もう。児童小説『見えない絵本』の執筆を始める」

ランダムに数字を言ってくれる相手が、実際に居るわけで無しに書いているブログなので、自分でランダムにページをめくってみた。

何のページかと言うと、長谷川集平著『映画未満』(90)という30年以上前の映画評・エッセイ本だ。

85年から89年の4年間、長谷川氏の『キネマ旬報』への連載コーナーがまとめられている。数字は、連載回数の章数になる。

その章の内容を、ナンバーとを簡単なメモ程度に箇条書きで書き出してみた。

これだけでは正直内容は分からないと思うけれど、それでもなんとなく魅力的ではないだろうか?

映画評とありつつも、話は絵本理論や近代絵画理論、モンタージュ論に音楽と(音楽もジャズからブルーグラスからクラッシックからロックまで)、毎回あちこちに広がる。ご本人の中で流れはあったのだろうけれど読者側は何度か読まないと、全体像がよくつかめない。

だから一つ一つの章を、一ページ目から最後まで流れで読んでいても、正直最初はあまり頭に入らなかった。

読み直すたびに、毎回読んだことが無い章を読んでいるかのように、記憶に残っていない。

「あれ、おかしいな」

記憶に残らないのは、興味が無いんじゃない。

タイトルが無いので、テーマの先入観も無いから記憶に残りにくいのかもしれない。

気になる片鱗を見つけながら、ページ数順どおりの流れでは、何故か内容が細切れになってしまう。自分の知らない音楽も多い。1章1章の内容が多面だ。

この多面は内容が濃いともいえるけれど、リアルタイムな気分に沿って若々しい文体だったとも言える。

実際の連載は一回につき次の掲載まで日にちの間がある。

この間だけでも、たぶん読む印象は変わるだろう。

そういうテンポで書かれたものを、まとめて読むと頭に入りにくいのかもしれない。

とにもかくにも、執筆当時、博学な20代の長谷川集平氏の知識が、その二十年後に読者となった、平凡な主婦である30代の私には最初読み取りにくかった。

でも、どうにか読み込みたい。読み込まねばならぬ。

そういう欲望が強く湧き出てくる。

ほぼ、強迫観念の様な学びの欲求。(なんで、そうだったんだろう?)

とは言っても、広い広いこの世界。全てオリジナルで勉強するなんてありえない。

そんな人間、この世に居ない。

高いお金出して学校に入りなおす…と言ったって「何を学びたいか」すら具体的じゃない。

自分の中の欲望の萌芽に、名前がついていない。(今にいたっても、名前はついていないみたい)

とりあえず『映画未満』を教科書にしていこう…どうこれを読みこなそうか。

そこで思いついたのが、氏が『絵本つくりトレーニング』という別の著書で説明解説していた「モンタージュ論」にヒントをもらう事にした。

本を、一回バラバラに解体して、自分の中で構築しなおす。

解体と言っても、そんなに大層な事じゃ無い。

章を順番どおりではなく、ランダムに組み合わせる。

例えば、4・9・98・67 と、バラバラな数字を組み合わせ、その並び順に読んでいく。

この時、読む順番を物語の「展開」として読む。…つまり…

黒澤明の3台のカメラ → 〇キュビズムについて → 〇『ケン・ラッセルサロメ宮崎勤の残酷ビデオ → 〇『ゴンドラ』愛されたことの無い者が愛する難しさ。アンドリュー・ワイレスの『ヘルガ』

という感じで、前後のつながりが関係ないエッセイを、一つの話の起承転結となるように頭の中で構築しなおし、流れを作る。

また翌日に57・85・6・3

といった感じに、適当な組み合わせの数字で流れを作る。

数字の組み合わせは、全て偶然。

意図的なものは(少なくとも私には)存在しない。

一冊の本のエッセイ・コラージュを頭の中で何度も何度も繰り返す。

すると不思議な事に、前後のつながりが変わるだけで同じ章でも内容に多様な印象が残る。その結果、さらに不思議な事に、一つ一つの章の内容がより浮き出てくる。

【流れを再編集(モンタージュ)することによって、一冊の本をあらゆる角度から読んでいる感じ】

これが私の「数字遊び」の始まりだ。

一冊の本を読んでいた。

私にとって、数字の象徴は章の内容を指していて、

何かのグループ分けとか、境界線ではない。

数字は、単体の内容を持っているけれど、単体で存在していない。

例えば、3が最初に来て「ずっとそれだけ」という事が無い。

次に、他の内容の数字がつながり、【流れ】をつくる。

この流れの波のなかで、再び3がやって来る事もある。

それで、3とまた出会いなおし、また次の数字(内容)につながる。

単体の数字が何かの真理のような権威は無い。

だって実際、私たちは数字をそんな風には使っていない。

数字は停滞ではなく、流動で 対峙ではなく、展開だった。

すくなくとも、私にとっては。

私、個人の中では。

けど、たぶんあるゲームの中では数字は「停滞」で「対峙」になっている。

なんでだろう?

それで、さらに『映画未満』を書いた長谷川集平氏に、いま私は全く会いたいと思わない。

私の知への出発点であったとも思えるのだけれど、いま私は彼の話を聞きたいと思っていない。

最初はそうじゃなかったはずだ

何故、こんな風に変わったのだろう?

この疑問は長らく進まず、深い悩みになっている。

その結末というか、句読点をつけるためにも

数字遊び④に続く…