kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

坂道

郊外の団地街、午後8時過ぎにめっぽう車が少なくなる。
ベッドタウンは夜が早い

中学生の頃、ブレーキの甘い自転車で、思いきり坂道を降った事がある

背後で少年達のはしゃいでいる声がした
勢いよくスケボーが坂道をくだり追い越していった
少し間を置いてもう一人
ガーーーーーっと、人気のない道路に車輪の音が響いて遠くなる
夜の車道を独り占め

車にぶつかったら死んでしまうぞ

自分の住んでいる街より、コーゾーさんの暮らす街の子供達に、実は親近感がある。
それは都心に出るまでの距離が、自分の育った環境に似ているから。
実際、地理的にも近いのでそう思うのかも知れない。
自分の家は平家の借家だったが、小学校の頃の友達は団地住まいがチラホラ居た。
友達の家に遊びに行って、公団住宅の重い扉に指を挟んだのはいつ頃だったっけ?

見る見る爪が紫色になって腫れ上がっていって
オンオン泣いた。
一人で帰ったっけ?
違ったような…迎えに来てもらったっけ?
そうだ、コーゾーさんが車で迎えに来たんだ。
たまたま家に居た。サラリーマンじゃないから

山を開拓したこの場所ほどでは無いけれど、
子供の頃の私には、団地街は巨大な迷路だった。

行きは学校で待ち合わせた友達と、帰りは「じゃあね」と現地解散してしまったら、とたんに緊張した
どこを見ても同じ景色に見える。
道はうっすらしか覚えていないけれど、方角だけたよりに自転車を漕ぐ
学校を挟んで、自分の家とは反対方向にあった団地街を抜ける目印は学校。
日が暮れる前に抜け出したい。夜の学校なんて近づきたく無い。
見栄えが変わらない建物の、やたら整えられている道の角を何度か曲がり、
見覚えのない、中庭のような無人の公園に出たり
寂しげな遊具

みんな帰ってしまった。
早く早く早く帰らないと



それからどうにか(でもなく)帰れたので今があるのだけれど。




子供の頃の団地風景と、一つ違いを感じる。
お年寄りが多い。

最寄りの沿線は某キャラクターのテーマパークがあったり、大学があったり、アウトレットモールがあったりなんで、
若い人はしっかりいるはずだけれど、住民となると年齢層が上がる…気がしている。

一つ隣の駅から、コーゾーさんの奥さんが運ばれた病院へ初めて向かった時、
タクシーの中で、付き添ってくれた御近所の方が運転手さんと話していた。

「やっぱり坂道が多いわねー、この辺りも」
「そうですね、山一つ分が街みたいなものだし。
若い頃この辺りに越してきた人も、今じゃこの坂道に苦労しているみたいですよ」
「あぁ、そうなの。若い頃はいいんだけど…」

そんな会話の後、高度成長で意気揚々と越してきた若い夫婦に、
何十年後の自分達なんか想像できっこなかったろうな…と思っていたら、コーゾーさん曰く
「年取ってから、事情あってコッチに越した人も割と多い」との事だった。
そうか、もう都心にちょくちょく出なくてもいいし、家賃も公団だと安いし。
コーゾーさんも、そういや事情ある人だった。

…そうか
でも、坂道が多いよね。

坂を下って行くスケボーの後ろ姿を眺めていたのは、桜が咲いていた頃だ。
今は、全体が1つの公園のような歩道には青々と緑がしげっている。
いつの間にか
見上げる木々を、同じ道の遠くでどこかのお年寄りも見上げている。

これから梅雨が来て、蒸し蒸しとする夏がやって来る、その風景も見上げるんだろうなぁ。

団地街から少し距離のある駅周りは、「突然全てを拵えました」感がすごい。
何も無かった所に、「全てがいきなり出来ました」感。企業の街。
お店はどれもこれもチェーン店で「昔からある喫茶店」なんかはもう少し都心に近づかないと無さそうだ。
ひょっとしたら、日本の景気良い頃はあったのかもしれないけれど、景気の波が変わって開発され消えたのかも知れない。

団地だけ変わらず。
その容姿はわたし好みだ。

コーゾーさんは、10年ほど前は何往復も出来たこの坂道も、今では出来ない。
停留所1駅分の距離、バスに乗る。
高齢者用フリーパスがあるから、タダ。

部屋には最寄りのバス停の時刻表が手書きで壁に貼ってある。
そのバス停まで行くのに10分前くらいには家を出る。
もちろん10分もかからないけれど、あまりピッタリにして焦らないように。
焦ると危ないので。

バス停の隣は保育園があって、そなえつけのベンチに座りながら、いつも
「絵の教室(コーゾーさんは数年前までシニア向け絵画教室の講師だった)で使った写生用のオモチャがあるんだけど…」と、
あまり幼児向けでもない置物の人形を、保育園に寄付したいと訴える。
あげるにはあまり綺麗でもないし、遊びにくいと思うよ とやんわり言うと、大人にとっては必要なく思えても子供の気持ちは違う…と、論される。

まぁ、今度ね…と、話をぼかす。幼児の声が聞こえる。ごめんね気持ちを理解しなくて。置物で遊びたいよね。

多量のキャンバスやら額やら、その他のガラクタで溢れかえった部屋を大掃除をしながら、抱え込んできた荷物に特別な物はさほど無かったが、廃棄の確認をすると、予想通り最初は「捨てないで」をコーゾーさんはくりかえした。
いや、どう見ても要らないでしょ

この荷物を五分の1ぐらいにしないと奥さんが帰ってきた時、介護ベッド置けないよ。 とか
不自由な身体二人で、物を置いているのは危ないよ。 とかを、その度に言って説得し、そのうち捨てるのに慣れてきてしまった。
何年も前の領収証やら、どこかのギャラリーで貰ってきたであろうチラシや、何故か大事にとってある大量の空き箱…etc。
それらは躊躇なくボンボンごみ袋に入れ、そのペースに慣れてくると、本当に必要なものまでうっかり捨てかねないので気を付けないとならない。
現金は無いが、例えば年金手帳とチラシが同じ扱いで荷物に埋まっている。
長年動かさなかった荷物の底で、ゴキブリが数匹干からびていた。

「僕のものは、もう何もいらない。彼女の事を優先して」
と、コーゾーさんはそのうち言い始めた。

そうか、ならこちらのジャッジで行くぞ。…と、兄とリビングでセッセと捨て作業をしていると、
コーゾーさんの携帯が鳴った。病院の奥さんから。

「あぁ…うん…調子はどう?そう…うん…今ね、子供達が全部やってくれてる……」

やさしい声で話すなぁ随分…!と、兄が作業しながら言う
私たちの母とはあんな話し方してなかったな。してた日もあったのか?
いや、その頃は今のようにコーゾーさんも弱ってもなかったからな…。

「…うん、…そう…僕のものはね、全部捨てられちゃう」

と、やはり やさしい声のまま言う
露骨に甘えるコーゾーさんに笑ってしまう。なんだよ捨てられちゃうって
「捨ててやる!」と兄は張り切る。非情な私たちは、大量のゴミ袋をつくった。

体力も落ちて、今では使えなくなった油絵具は、開けないままガチガチに固まっているのがいくつも出てくる。
絵の具をなめらかにさせるオイルも出てくる…こちらも封を開けていないのが何本か
使ってないまま、埃被っている。画材は安いものじゃない。
使い古しは捨てて新品は残すか…と、古いオイルをやはりもう着ないで何故かためてある古着に染み込ませる。

懐かしい香りだ。
いい匂い…と思うが、油絵の画材は多分身体に良いものでは無い

絵の具と一緒になってコーヒー粉がバケツいっぱいに出てくる
何これ?
なんでも、絵の具に混ぜて画質に凹凸をつけていたらしい。
奥さんがセッセと協力して溜めていてくれたそうだ。

兄が使い込んだ油絵具の一式を並べて写真を撮る。
「誰か欲しがるかな?」
そりゃ、欲しがってくれたらいいけど…
「飾るだけでもさ」
そりゃ、たまたまそんなスタイリストがいてくれればいいけど…

何故かコーゾーさんの子供達はけして綺麗ではないそれらは捨てられず、かと言って使いそうにも無く
記念写真を撮って、押し入れ奥にしまった。
多分、コーゾーさんが生きている限り、ずっとそれはそこにあるんだろう。


こちらは、捨てられたオイル。




翌日はコーゾーさんの脳神経外科へお昼から付き添う。
(1年間ほど通院をサボっていたので、1年ぶり。1年間も病院さぼる障害者である)
例のごとく、ゆっくりとバス停まで向かう。
保育園は静かだ。子供達はお昼寝の時間だろうか。
どっこいしょ、とベンチに座り「静かだなぁ、保育園休みかなぁ」とコーゾーさんが言う。

「お昼寝じゃないかな」
「そうか…お昼寝か…」
「うん」
「……昨日、油絵具あったろう…」
「…うん(まさか保育園にあげるとか言わないだろうな…)」
「……あれさ、大学にあげようかと思って」
「…………大学?」
「近くに、あるだろ○○大学」
「………なんで、そこ?」
「一回、学園祭に遊びに行った事あってね。美術サークルの子と話し込んでさ…僕、絵描きなんだって話してさ」
「そんな、あげれるほど綺麗でもないよ」
「取りに来いって言ってやろうかと思って…」

コーゾーは、何故か嬉しそうにニヤリと笑う。

「…え?親しい子居るの?」
「………うーん、その時に話しただけだけど」

学祭で一度だけ会った左半身不髄の爺さんから、ボロボロの画材を「やるから取りに来い」と言われる若者の不条理を想像する…

「…それ、最近の話?」
「うーん……8年くらい前だけど…」
「…………あぁその子、卒業してるね」
「…あー、卒業かぁ」
「うん、多分…きっと」



バスが坂の上の方からやって来た
よっこらしょとベンチから立ち上がりながら、
「そうか、卒業してるか…」とコーゾーさんは残念そうだ。
緑が揺れる
今日は晴れてよかったね。と言うと、
コーゾーさんは 「うん、良かったな」と言いながら、
バスに乗り込んだ。