kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

そして2023年の長崎原爆の日に投稿していた、ブログ「あのコは加工肉が好き」


あのコは加工肉が好き 数字遊び ②


8月9日、長崎の原爆雲を少年だった私の父は長崎の小浜で見上げていたそうだ。

父方の祖父はそのころ、小浜で塩を作っていて兵役を免れていたと聞いた。

祖父は小浜の人間ではない。福島、会津の出身。東北人である。

出稼ぎの肉体労働で九州にやって来ていて、それからどういった流れなのかよくわからないけれど、小浜の温泉で温泉熱を使った塩田業に着き、造塩が軌道に乗ってから福島の家族を呼び寄せて、戦中は小浜で暮らしていたらしい。

どこも物不足の時代だったけれど、貴重品の塩作りという職業柄なのか比較的不自由しない生活だったと聞いた。

祖父が風呂場に拘っていて、広い洗い場の窓から大きな川魚見える様に生簀を取り付けて、それが「まるで水族館みたいだった」と子供の頃、父から聞いた。

「戦時中に水族館みたいなお風呂」

幼少期、鹿児島で空襲の火の海を、中学生の叔父に背負われながら逃げ回った母の戦時中の体験と、父の経験はかけ離れていて、その話を聞くたびに子供心に運命とは不平等なものだと思った。

それも、戦争が終わった頃には温泉も枯れてしまって塩田業は廃業、一家は東京の下町に上京して極貧生活に戻ったという。それでも父方の祖父が戦争へ行かずに済んだのはラッキーだったんじゃないかと思える。(戦時中は口が裂けても言えない事だ)

父が見上げた原爆雲から数日後、ホロ付きトラックが何台も父の暮らす村の公民館前にやって来た。

好奇心旺盛な少年だった父は、街から届けられたホロの中の荷物が気になって覗いてみた。

そこには、全身大火傷を負って、皮膚がドロドロにただれている負傷者が呻きながら大勢乗っていた。

あまりの惨状に父は一目散に逃げだし、裏山で吐いた。

その夜から数日、鼻血が止まらなくなったと言っていた。

鼻血が被爆者達からの放射線の影響かはわからない。

精神的なショックも影響していたんじゃないだろうか。

 

今朝は強い台風が九州へとゆっくり向かっている。

8月9日は長崎原爆の日である。

関東地方の空も不安定で、強い雨の後に晴れ間がのぞき、また曇ったり…と、グルグル空が動いている。

 

78年前の8月9日、元純心女子短期大学長の山田雅子シスターは、上空で原子爆弾がさく裂した頃、浦上教会近くの藪の中に居た。

爆心地からさほど離れていない場所に居て、酷い火傷の被害にあわなかったのは、藪の木々に守られたからだとおっしゃっていた。

轟音と爆風に身を縮めて、落ち着いたころに藪から出ると一面焼け野原だった。

浦上大聖堂は崩れ落ち、500年の迫害で財産を全て奪われた信者たちが、茶碗の欠片で土地を耕し、再建した浦上のキリシタン部落も姿を消した。

純心会の仲間はそこで殆どが亡くなった。

家族も、その日を境に会えなかった。遺体は見つからなかった。

すべてが一瞬だった。

山田シスターに、私はカトリックの受洗前の数か月間、要理勉強や聖書の勉強をみていただいていた。

代々の潜伏キリシタンの末裔で、シスターのお婆さんは幼いころ禁教令によって親が入れられた牢屋の前で遊んでいたらしい。拷問を受けた親戚も居ただろう。

私が出会った頃、既にシスターは学長の座を引退されいて、那須山の中の3人しかいない修道院で過ごされていた。

私はシスターの元へ月に数回、勉強に通っていた。

小柄で、知的でユーモアいっぱいのお婆さんだった。

教え方の本当に上手い方だった。

シスターの経験はどれも貴重で、私は原爆のあとに何を見てきたのかを一番質問したかった。けれど、その辛い体験をやすやすこちらが切り出せるはずも無く、何も聞けなかった。

一つだけ、原爆投下の日以来二度と会えなくなったご両親を想う時、うんと幼かった頃の思い出が蘇るとおっしゃっていた。

夢中で遊んで家に帰ってくると、お兄さんから「お前、どこに行ってたんだよ?お父さんとお母さんずっと雅子を探してたんだぞ」と叱られた。

お出かけをするご両親が、娘も一緒に連れて行こうとずっと帰りを待っていてくれたそうだ。結局時間もおして、入れ違いで出られた後だった。

「その時、自分を探してくれていた両親を想うと、切なくて切なくてね。わんわん泣いたのよ」とおっしゃった。

もう会えなくなった家族との思い出は沢山あるけれど、決まって思い出すのがこの時の感情で、鮮明によみがえる。

まるで良き羊飼いが、懸命に一匹の子羊を探してくれているかの様で、子羊はその愛情の痕跡を恋しい恋しいと探って、その人の姿は見えない。

それは原爆体験の話では無いが、私が山田シスターから聞けた唯一の原爆にまつわる話しだった。

山田シスターはそれから2年ほど後に、胸の持病が原因で亡くなられた。

私はもう那須から今の住まいに引っ越した後で、シスターには会えなくなっていた。

代母になってくれた女性から、シスターの即報を聞いた。

そういえば、いつもゼイゼイと息をされていた事を思い出した。

「どこかお悪いんですか?」と訊けなかったのは、普段の声もよく通る声で、いつでもニコニコされていて、そこまで身体が悪いとは思っていなかった。

直接の原爆体験を話すという事は、きっとかなりの意志が必要になると思う。

生き残ったほとんどが、原爆症を恐れながらただガムシャラに生きるしか無かったはずだ。

忘れられるなら、忘れて終いたい事だらけだったろう。

そうじゃなくとも、被爆者として差別されながら生きなくてはならなかったなら、ひたすら口はつぐむしかなくなる。

だから、その経験を話せる人と言うのは、改めて本当に貴重だ。

それも年々少なくなってきている。

ウクライナとロシアの戦争で、周りの国々は兵器の実践率をいま見極めているそうだ。

「必要な兵器」と「不必要な兵器」に分類している

あの戦争は世界の先駆けた実践かのようだ

アメリカがトランプ政権の頃、不必要な兵器を高い値段で日本は買わされていたそうだが、バイデンになってからはどうなんだろうか?

 

日本は予算の軍事費を増やし、相変わらず、軍事に疎い国としてそんな買い物をボスにさせられているんだろうか。

「買い物をする」という点で、やはり戦争は資本主義的市場なんだな…と思う。

「実践的で現実的な戦争の話」と言いたいが、この政治の動きはそんなきれいな物事でも無いだろう。

国の為に殺害する兵士を横目に、資本の為に人は戦争もするのだ。 

だいたい、かつて日本がそうやって世界に戦争を仕掛けたのだし。

だから#1 で書いたルネ・ジラールの『高度に差異化された社会において想像だに出来ないような、ミメーシス的な自由参加』ってやつがこんなところにも当てはまると思う。

この自由参加は、どうしようもなく引っ張り合いが起こり、そこから逃れられなくなる。

戦争を何故止められないのか…は、このミメーシスが全体的に一致しているからだ。

否応なしに、参加が求められ、求めている。

ヒューマニズム的な理屈や言い分は通らなくなる。

この通らない状態を「きれい事では済まされない」という言葉に転換されていると、よく思う。

「済まされない」と言いながら、本心の欲望はいつでも隠されている。

動く資本の説明は後回しである。抑止の行為は、行為そのものが力関係の元、全体の欲しい物事は合致している。負けたら得られないだけではなく、奪われる

終戦記念日の度に耳にする、

戦争の様な愚かな行いは、けして繰り返しません という誓いは誰に対してだろう?

ライバルに対して?

負けたから言わされているのか?

未だにそんなところに居るのだろうか

父は戦時中、母は戦後に祖父の仕事の都合で長崎で過ごしている。

私の両親二人とも長崎で生まれてはいないが、不思議と二人して子供の頃に縁がある土地だ。

母が少女時代に過ごしたのは長崎、佐世保。ご存じ、米軍の街でもある。

母は2年ほどしか居なかった佐世保時代が、自分の人生の中で最も穏やかな時期だったらしく、苦労ばかりの25年の結婚生活が破局した後に、佐世保の旧友に連絡を取って交流を復活させていた。

それで、私自身はカトリックの洗礼を受けたので、長崎は日本カトリックの歴史として関りが出来たが、それは精神的な面で、実際の土地にはまだ近づいていない。

いずれ行かないとならないだろうと思いながら、まだ足は向いていない。

2023年8月9日 長崎原爆の日に寄せて

~数字遊び~③に続く

画像は、原爆で亡くなった妻にロザリオの祈りを捧げる永井隆博士

博士も被爆白血病の末に亡くなった。

そして浦上教会にある 被爆のマリア