kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

序曲から、まだブログだった頃の「あのコは加工肉が好き」へ

あのコは加工肉が好き 数字遊び ①

 


何で持っていない性器を

あるように 見せるんだろうな

そう見せても、どっかで いいんだよ

男の土俵の中に居るから

その方が 社会に受け入れられやすいんだ 本当は

制度の中なら 言葉に出さなくてもいいし

それが社会なら 理屈もいらない

フェミニズムだって こんなところは 含んでるよ

「とても変わった 手紙 6」より一部

 

 さて、「とても変わった手紙」は葬り去ってあげないとならないので、再び戻ってきたブログはここから始め、解体して行こうと思います。

SNSで先日話題になっていたファンアートがあって

今更なほどに広まったんですけれど、それが↓これ

 映画「バービー」と映画「オッペンハイマー」をコラボさせたこのファンアートに、興味深い記事を CDBさん(正式なユーザー名がよくわからない)という方がnotoに書かれていまして、それには日本人の我々から見た場合、原爆の炎の中ではち切れんばかりのキュートな白人女性と、凛々しくダンディズムを匂わせている男性の姿は不謹慎な悪ふざけに見えるが、これはアメリSNSの正義である…と。

いわゆる「ホワイトフェミニズム」の構造を見事に、鮮やかに描き出したクリティカルなアートはない。 とおっしゃっている。

それは『不謹慎な悪ふざけ』ではなく『アメリSNSの正義』であるという話、『バービー』と『オッペンハイマー』原爆の父の肩に乗るフェミニズム表現の自由について|CDBと七紙草子 (note.com)

原爆は第二次世界大戦の帰結として投下された。

それは第二次世界大戦の敗戦国とは関係ないところでの、冷戦の始まりでもある。

ここで力を付けた国家が今現在も続いている。なるほどやはりこれは政治だ。

軍事力(原爆)に支えられたフェミニズム

なるほどね…なんて文章を読み進めながら、実はこの冒頭に自分で書いていた箇所を思い出していた。けど、それは映画「バービー」の事ではない。

映画「バービー」に関しても、はたしてそれはホワイトフェミニズムに特化した作品なのかも、見ていない私には定かじゃない。

言ってしまえば、このファンアートは両作品の何も触れて無く、ただドッキングさせたミームとして存在しているんじゃないのかと思える。

その文脈がCDBさんのSNS分析には当てハマったんじゃないかと思える。

オッペンハイマーの映画も観ていないので、この作品が原爆投下後のオッペンハイマーの人生をどのくらい描いているのかわからないが、晩年の方が彼とアメリカを描く上では欠かせない部分のはずだ。

アインシュタインが言っていた通り核は科学では無く、政治として扱われた。

という事は、オッペンハイマーのリーダーシップとは関係なくどのみち投下されたと言えなくもない。

この場合の政治とは、「戦争を終わらせる為に」ではなく「戦争が終わる前に」投下されていた とも言えるほどに、核開発は絶妙に政治利用されている。

アメリカじゃなくとも、他の国が使用したかもしれない…時間の問題として

戦争の緊張状態の結果、核兵器開発のスピードを上げてボタンを押したのがアメリカなのだ。冷戦の開幕として。

お陰様で、核所有国はメキメキと数を増やし

今では北朝鮮も開発に余念がないほどに成長した。70年前には想像もしなかった事だ。

原爆は世界大人気兵器である。

彼らにとっても、オッペンハイマーは「原爆の父」だ。

それはこの科学者を科学者として苦しめ続け、あの炎は地獄の火としてオッペンハイマーを焼き続けるだろう。

ファンアートが現したミームは、ザックリそういう事なんだけれど「白人アメリカ人が演じている」というてんで、CDBさんのSNS文脈に代わるのだと思う。

ではバービーじゃなくて、黒人女性は同じポーズを取らないか…というと、取ると思う。

なぜなら、いまや白人社会にだけ原爆が存在しているわけでは無いから。

人種は何が出てきてもおかしくはない。

バービーがキム・ヨジョンに代わっても別に絵に違和感はない。

それだと思想がリベラルではない…と反論があったとしても、

思想の差異よりも「世界観が似ている」という点が肝なのだ。

フェミニズム的な言語にするのは、その他の思想と変わりなく時代性なんだと思う。

暴力の痕跡はずっと古代である。

現実の中では、バービーはオッペンハイマーの肩に乗って居られないだろう

実際のオッペンハイマーは自分をクリシュナ神話に例えている。聖なる裏の生贄行為を自覚していた。

その肩に乗ったバービーの美しい肌は、ケロイド状に焼かれるだろう。

大火傷を逃れられたとしても、被曝症で姿は望み通り激変するだろう…

そこは平等に 放射能も熱波も人種・男女差別はしない。

あのファンアートに関しては、不謹慎以前にそういう風にしか私には言えない。

ここがちょっとCDBさんと見解が違ってくるところかもしれない。

ロマン派特有の囚われたかをしている空気を相手にした場合、(その囚われの中では、バービーもオッペンハイマーも神のごとく超人のごとく、選ばれ被曝しないのだ)いくら「政治」という観点からの歴史観だとしても、既に色々と自由にはなっていない。

政治は核兵器を利用したが、それは人類は化学的に核コントロール出来ていないと証明している。

人間というのは、模倣をする生き物だ

核兵器に、既に個性など無い

似たように依存をしている。

ライバルを否定し合う といった行為もお互い差もなくやるのである。

国境を超えて、そっくりな死体をたくさん作ってくれる。

イマジンがこんな形で…あぁ、すみません…またやってしまった。

冒涜はしていないですよ。

それでも、天国も地獄も無い ではなく、地獄がすぐそこにあるじゃない…と文句を言いたくなる時がある

もう一つ、CDBさんの分析で気になっているのが、SNS上のフェミニズムにまつわる「権力への意志」だ。

男性社会の権力に立ち向かうフェミニズムが、同じ物事を欲望しているとしたら、それはなんであろうか。

権力のモデルとして、往年のスタイルを模倣しているのは、ずっとだ。

別に、これはフェミニズムに限った話でもない

モデルは敵対関係に変化して、憎しみのライバル関係へと変わっている。

つまり、家父長制を憎みながら非常に惹きつけられてもいる。

世界大戦以降の宗教的反発も、似たような二重構造の模倣が行われている。

生贄の儀式はどれもこれも同じである。

女性が自由になるために原爆は必要ないが、

あのファンアートは女性の権利とは関係がない核兵器依存社会に対してのあからさまな答えを出さない。

つまり、答えは回避してその土俵と同化してしまったのだ。

日本は戦争を起こし長引かせアジア諸国を傷つけた国だ。

その責任がある

その責任として、仮に原爆が制裁として下された罰なのだとしても、攻撃されたのは責任者では無かった。 

その選別能力のない爆弾である。爆弾の爆発に意志は無い。

 

その代わりに

この無意識に、生まれて間もない子供までが、命で責任を取らされてたという事だ

何を破壊したかったのか、じつのところ誰もわかっていないんじゃないだろうか

戦時中日本の少年誌表紙をここに貼ってみる

少年の笑顔は何に笑いかけているのか 

ファンアートの架空人物の笑顔と、時間が動いていないかの様に類似している部分がある

バービーはそもそも、子供の為のおもちゃだった

2023.8.6 広島、原爆の日に寄せて

ブログは②に、続きます。