kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

コーゾーさんのこと の 日記を始める

「あのファミレスまだあったんだ。誕生日になると家族で行くとこだったんだよ」

車を運転している夫にボンヤリ話しかける。
夫もボンヤリ聞きながら、ナビを確認し運転している。
11月の空は寒々と曇っていた。

6年前、母を火葬する朝に父を迎えに行った。
私の暮らす街からふた県ぶん離れた公団住宅に、脳梗塞の後遺症で左半身不髄になった父は、再婚した奥さんと住んでいる。
母は東京都心で1人暮らしだった。
夫婦は20年以上前に離婚していた。

母は死後数日間、誰にも発見されないで死んでいた。
月に何度か電話連絡をしていたが毎日では無かったし、
「行くよ」と言っても「返ってくたびれるから来ないで」と強く拒まれていて、
それが建前の気遣いなどでは無く、本当に具合の悪くなってしまう神経質な人だったので、
「じゃあ、落ち着いたら行くよ」と言いながらそのまま会えず仕舞いになってしまった。
こう書くと、まるで母娘仲が悪かったようだが、そんなことは無く。とにかく人に甘える事ができない人で、心配性で、それが父との生活にも災いした。
というより、甘えさせてもらえなかった気もする。


甘えるのは父の方だった気もする。
そして離婚も、
父が出て行ってしまった。

…いや、これも夫婦間ではフェアなジャッジでは無いんだろう。
ないんだろうけれど、私は父にたくさん文句があった。
だから、どうしても母の肩を持ってしまう。


発見時、既に腐敗していた母の身体は、すっかり布で覆われていた。
最期がどんな様子だったのか、誰にもわからない。

その母親を焼く日の朝、父を迎えに子供の頃に住んでいた街を通ることになった。
夫は私の育った街の住所を知っていたわけではないので、
偶然 そこを通ることになった。

子供の頃の思い出と、現状があまりにもかけ離れているように感じて、記憶の場所はピンと来なかった。

「あの頃は良かったな」とひたる感じも無かった。
「あの頃もあの頃で、大変だったな」と思った。

売れない絵描きの家庭は大変だった。

やがて大きな公団住宅地へ車はたどり着いた。
高度成長期に東京への急速な人口流通に伴う住宅不足に対応するために、
山を切り崩し現れた巨大な公団住宅街は今やレトロな風貌に変わったが、名前には「ニュー」が着く。
12階の建物からエレベーターで下に降りてくる父を待つ。
喪服を着て杖をついた老人が、左半身を引きずりながらやってくる。

人懐っこい目で「わざわざありがとう。悪いね、ごめんね」と父が言った。

別れた人のお別れに、車が走り出す
火葬場で父の居場所はあるかだろうか、と少し思い、
母はやはり、父に顔を合わせたく無かったのだろうか…と少し思い、
あとは考えないようにした。


父の名前は コウゾウ。
漢字に名前の意味はあるけれど、それは今は明かさない。
コーゾーさんの奥さんが先日救急搬送され、
その日から私はコーゾーさんの元に通うこととなった。

その日々を日記のように書いていこうと思う。

年老いて子供たちの世話にはならなかった母は、これを許してくれるだろうか、と少し思いながら。





うちで最近飾っている父の絵。
昔のものと、最近のもの。