kozosannokotoの日記

コーゾーさん81歳、左半身不随意、売れない絵描き。そのコーゾーさんの娘が書く介護日記です。

サブカルチャーと日本文化

宮崎駿って、絵コンテの段階で空間のデッサンがビシッと合ってるんだって」

と、娘に教わる…

彼女はアニメーションでの3D担当の仕事をしている。
絵コンテ段階で、曖昧になっている(イメージだけになっている)空間を、3D処理で具体的に画面の中に立ち上げていく作業らしい。
詳しく聞いてないので「らしい」という言い方になってしまう。
絵コンテにはその際、通常なら監督からの支持や注文は文章で入っていて、3D担当はその中で実際の空間に合うかどうかを調節しながら演出家の希望に沿うように仕上げていく。

らしい

中には、絵コンテ段階では空間の辻褄に合わない箇所が出てきたりもするが、それを具体的になるように練り直す作業もある

らしい

これを、コンピューター無しで、宮崎駿は手書きで全て絵コンテに描き込めてしまうと言うことだ。
2Dの背景担当では無くて、監督自身がそれを出来てしまう。
その空間デッサンは全てピッタリ合っているそうだ。…と言う事を教わったのだった。
カメラアングルを決める際、彼のファンタジー世界の空間も具体的に構築されていると言うことになる

芸術家でありアニメーターの職人さんでもある
そう言う技術者は、今の日本のアニメ界にどのくらい居るのか、私は詳しくない。
世界にだったら居そうだな…と思えるけれど、ここは日本に限って、どのくらい居るのだろうか?
ほぼ皆無だったら、宮崎駿の技術も天才気質に入るのだろうか?
それとも、とことんアニメーター気質なんだろうか?

そう言うことも、詳しくない。
詳しくは無いけれど、このおじいさんから盗まないとならない物事は、まだ沢山あるんだなぁと思う。
一体何を盗むのか…
簡単に「技術」ともちょっと違う気がする
アニメーションに「詳しくない」と繰り返し言っといて生意気なのだけれど、
今、失っている『生活感』だと思う。
作家の『生活感』を盗む とは、何とも漠然とした言い方だし、きっとそれだけでは無いのだけれど、
今のファンタジーアニメの中でも、この巨匠の『生活感』は生き生きしている…

注[2Dが偉い とか言う話では無いですよ]

宮崎駿の世界には、善良な働き者が存在する。
「性格が善人」と、早合点しないように繰り返すけれど、「善良な働き者」
描き手がそう言う人々を愛しているかどうかの方が重点だ
結果、善人が多いと解釈されるかもしれない

ここは、ちょっと危うい

権力者以外、彼の世界では悪役も労働者としてはよく働いている
この世界の人々は、そうやって食って生活しているんだな…と思う

彼の作品に、現代の東京が出て来ていないのは理由がある様な気もする
けど、近日公開される新作は、ひょっとしたら私の見解を裏切るかもしれない…わからない

ジブリ美術館は東京にあるしね


私はジブリ作品の黄金期を多感な年齢でリアルタイムで観ているけれど、特別作品のファンとは言えない
ジブリ作品からも発生してきた、日本の美少女アニメカルチャーは未だに馴染まないし、
風の谷のナウシカ』のアニメ作品は苦手でもある。(漫画の方が好き)

でも、クオリティの高い大衆的なアニメ作品が動き始めた時代だったな、と思う。

こう言うのは、50年代の日本映画黄金期を振り返る感覚に似ているのかもしれないけれど

アニメーション映画は、その後を継ごうとしていたかもしれない。
…多分、今はそう言う事でも無い。


先日、テレビで2004年の『ハウルの動く城』がやっていて、
特に集中するでもなく観ていても、ヒエロニムス・ボスを彷彿させる戦闘機と魔の(動き)ディテールの扱い方、カット割…他の日本ファンタジーとは別格だと感じてくる。
原作は別にある物語だけれど、精神的な「内の表現」も丁寧。

時間とお金もかけている。

やはり好きでは無いけれど、一番最近の『風立ちぬ』を今改めて観ても同じ様に感じることかもしれない。

ジブリ作品の何が好きでは無いのかは、ちょっと置いておくとして…
2021年の東京オリンピックで、日本はサブカルチャーを「日本文化」として扱っていたけれど、その業界がどのくらい文化として根が張っているのか、素人感覚でもイマイチしっくり来ない。

なんとなく、不安定なんじゃ無いかと感じてくる。

経済効果が上がり、急激なメディアの扱いでそう感じているんだと思う…

この「経済効果」は、創作の『時間とお金』とは別なんだろう
経済効果で『時間とお金』が出来ると言う人もいるのだろうけれど


宮崎駿が、表現者として黒澤明とは別の道が実質的に続いたらいいな…とは思うけれど、難しいのだろうか
宮崎駿オンリーワンで萎んでいって欲しくない。
ウォルト・ディズニーと似たような道は目には着くけど、それは日本の文化とは違う




……さて、日記
癌患者の老人について

コーゾーさんについて




カテーテルの検査は、入院翌日の朝の九時ぐらいからだった
その時間に合わせて病院に行き、検査結果が出たら元の病院に帰ることになる。

コーゾーさんの病室は他に部屋が空いてなかったらしく個室だった。
看護師さんは元の胃腸科の病院と違って若い人が多く、なんというか慌ただしい感じがした。

コーゾーさんんはその病院で、ひたすら不服そうな顔をしていた。
曰く、「スタッフが若いから扱いが雑」との事だった。

「あっち(元の病院)の方がベテランが多くていいけど、こっちは何かなぁ、口が悪いし騒がしいし…」
「…若いから活気があるんだよ」

まぁ、ものは言いようだな…と、自分でも思う慰め方をした
あと一泊入院していたら、一緒に不満を言っていたかもしれ無い
循環器と消化器だと、病院の性質も変わるのかなぁ…なんて思った
…そう言うことでも無いんだろうけれど

とにかく一泊のお世話で、とっとと退散する

カテーテルでは、最初の検査で90%詰まっていると診断された心臓を支える血管は、ガタガタではあるけれど何とか手術には持つだろう と判断された。
よかった、よかった 手術できる。

ものすごくバタバタした前日とは真逆の土曜日
午前中に全て済んでしまったけれど、コーゾーさんは「本屋行きたい」とは言わず
早く元の入院場所に帰りたい様子で、タクシーを呼んですぐに帰った

帰りのタクシーで切手と封筒と便箋が欲しいから持ってきてと、コーゾーさんは言った。
手術までに手紙を出したい人が居ると言う。

循環器でGOサインが出たので、後はひたすら血糖値を下げる事に集中する
その間、介護士の面接があったり、部屋の粗大ゴミを運んだり、冷蔵庫の食べ物を無理に消化して胃もたれしたり、
老夫婦の役所での書類上の手続きに役所を行ったり来たりしたり…と、部屋作りと介護環境を整えていく作業が重なる。
6月9日の診察で、血糖値もまぁまぁ落ち着いてきたので手術日は14日に決定。
執刀医は若い女性のお医者さんになった。

その診察の帰りに、前に言っていた手紙を渡される
見ると、切手を貼る位置が逆で住所が記入されていない。

「住所録、持って来て」とコーゾーさんは言うが、筆跡を見ると封筒に全部収まる気がしないほどの文字のデカさだ。
住所は私が代わりに書いて出しておく事にする。
切って貼る場所も間違える程、耄碌していたのか?と少し驚く。
ガタガタの字が、カテーテル検査で見えたコーゾーさんの血管みたいだと思った。

診察の立ち合いも終わって、帰り道にお昼ご飯を食べていなかったので
一人駅近くの純喫茶に入って野菜サンドとコーヒーを頼む
テーブルがインベーダーゲームのままの、タバコも吸えるような喫茶店(そーいうのは純なんだろうか?まぁいいけど)
私の他にお客はいなかったのだけれど、気づいたら後ろの席に常連らしきおばちゃんがタバコ吸っていた

どこに居たのだろう?
入って来たのも気づか無いほどボーッとしていたっけ?

多分、奥の座敷(住居になっている茶の間)に居た模様。
後ろでタバコを吸いながら酒焼けしたようなダミ声でおしゃべりしている
元気良く喋っていたので「元気っていいよな」と思う
「あの部屋から住所録見つけるの面倒だなぁ…」と、またぼんやり思う

少しくたびれて来ていた。
サンドイッチとコーヒーは美味しかった。


コーゾーさんの胃の腫瘍は二箇所。しかも、胃の入り口と出口に分かれてあった。
この状態で胃の一部を取り除く事は不可能、胃を全摘出という事になった。

生活保護費も入院基準が短期から長期に変更になったので、その月入金された金額はそのまま返還となった。
生活保護なので、入院中の費用は生活費とは認められない。
それプラス、数千円の自己負担金、毎日のタオル、パジャマなどのレンタル料、生活ラインの電話料金、ガス電気代は取られる。
水道代は一定の免除額を超えなければ取られない。ここはほぼ使っていないので心配はない。

前も書いたと思うけれど、こういった大病にも見舞われた高齢の生活保護対象者が、管理サポートする人が居なかった場合、生活保護も老人一人で対応できるだろうか。
今よりも、この先10年20年後の方が、独り身の老人は増えそうだ。
コーゾーさんがもしも私たち子供と全く繋がりが無かった場合、妻は他の病院で入院したままコロナ禍でお見舞いもままならず、別々に人生を終えていてもおかしく無かったなぁと思いながら、その日も部屋の大掃除をした。
手術間近になって、ようやく部屋がどうにかなってきた。

生活保護を受ける際、一つだけ持っていない家電の費用も、全額では無いが援助してもらえる。
コーゾーさん宅には、エアコンが無かった。
夏は高層階の窓から入る自然風を頼りに、冬はホットカーペット、炬燵(脚が壊れている)、灯油ストーブだった。

前年の猛暑の記憶で、エアコン無し生活によく耐えたね…とも思ったが、
それ以上に、老人宅に石油ストーブ……一人は左半身不髄…
もう、これは霊現象以上に恐ろしい 

どうにかしなければ…と思っていたところに有難い話だった。
ぜひ、エアコンを注文しなければ…援助額から言ったら6畳間用くらいしか出ないが、数万プラスで10畳間ほどのものは買えそうだ。
(オーバーした分は自己負担となる)
工事費は出してもらえる。ラッキー。

子供達で話し合い、ネットで探すと安く済むぞ よしよし …で、どれにしましょう?みたいなやり取りが続く
ラインでこれどうです?あれどうです?と送り合い、候補を絞ってその金額と工事費が記載されているページをコピーして役所に送った。

その結果「いくつか候補を送ってもらって、その中から一番安いものになります」
という事だった。つまり、一つだけのデータではOKにならない。
急遽、もう一つの金額記載ページを送り直して検討してもらう。再びOKが出たのはコーゾーさんの手術日だった。

手術の日は、初めて車で八王子へ向かった。
もっと早くそうすれば良かったのだけれど、コーゾーさん宅の近くの駐車場がどのあたりか確認していなかったのと、
片道2時間の運転は嫌だなぁと思っていたので、ずっと電車通いにしていた。
電車なら座れたら眠れるし

でも、荷物の持ち運びも面倒になって来たので、駐車場を調べて車通いに変えた。
駐車場は思ったより近くに安い料金で見つかった。

手術は昼の12時半から
大体、2時間くらいで終わる予定
1階で受付を済ますと、そのまま父の病室に通される
この時、何か手伝いをしないとならなかったのだけれど、
何を手伝ったのか思い出せない。何だったっけ?

病室でコーゾーさんは、看護師さんに少しキツめのタイツか何かを履かせてもらっていたように思う
それが、何のためだったのかも思い出せない
日記に付けていなかった

コーゾーさんが力無い表情でいたので、「いよいよだね、大丈夫?」と声をかけた記憶がある。
コーゾーさんは、「うん…」とやはり元気なく答え、車椅子で看護師さんが迎えに来ると
「よし、覚悟を決めた」と言った。
ヨレヨレの老人が「覚悟を決めた」と言っても、何の勇ましさも無かったが、
周りに言っていなかっただけで、胃を取ってしまうのは、実は怖かった様だ。
そうだよなぁ…やっぱ怖いよな…と思ったけれど
歯の無い顔で「切腹してくる」とこちらを見上げながら言ったので、笑ってしまった。

車椅子で看護師さんとエレベーターに乗り、
手を振りながら、歯の無い武士は行ってしまった
大丈夫だろうか…まぁ、大丈夫なんだろうけれど…

その日も、寒い6月だった。
雨が降っていた
「いつ、呼び出されるかわからないので、手術が終わるまでは病院から出ないでください」
と言われていたので、ひたすら一階のロビーで待っていた
昼食もまだだったので、病院の売店でパンとコーヒーを買って食べた。

待っている間に携帯が鳴り、役所からエアコンの候補二つから、安い方でOKが出た
早速注文…と思ったら、売り切れていた

そう、この年はコロナ禍で部品不足になっていて、エアコンが全体的に品薄…早い時期から売り切れ続出状態だった

もう一つも、完売…
再び振り出しに戻る。義理兄弟達にLINEして急遽相談。
早く買わないと物が無くなる
多めに候補をあげておかないと、また面倒になる。
買えても、工事日だって混み合っている
病人が二人、退院して帰って来る前にエアコンは無いとまずい

4、5台ほど候補があがって、それを全てプリントアウトして明日速達で郵送することに決まる。
ここはアナログ…窓口に直で持って行くか、郵送かしか無い

手術の心配よりもすっかりエアコン問題に気持ちが奪われる。
「早く、これが片付かないだろうか…」なんて憂鬱になってきていると、もう2時間近く時間が過ぎていた

もうそろそろ終わりになるな…でも、そんな時間どうりでも無いのかな…
あと数十分はかかるだろうな…
…はぁ、エアコン問題早く終わって欲しい…と頭の中はぐるぐるしていたら、あっという間に1時間経過する

…あれ?でもいくらなんでも遅くない?と、ようやく手術経過を気にし始めたのは5時を過ぎた頃
結局、看護師さんから声をかけられたのは、夕方6時近く
ロビーには、他の手術患者の家族らしき数人のみ。
あたりはすっかり暗くなって、冷たい雨は降り続けていた。

「予定より随分時間かかっちゃってごめんなさい、あとね中を洗浄するから1時間くらいで終わりになると思うから」

コーゾーさんが言っていた通り、ここの病院の看護師さんは皆感じのいい人ばかりだった。

手術が全て終了したら、私はコーゾーさんの切除された癌細胞を確認する事になっている。

次に声をかけられるまでひたすら待つ。
ロビーに居た、他の入院家族らしき人々は皆呼び出され、
薄暗いロビーには私一人になっていた

車だし、もう6月なんだから…と、薄着で来たことに後悔した
足元もヒールのサンダルで、靴下も履いていなかったので足先が冷たくなっていた。

それから1時間半後、私は手術室の隣にある小さな待合室に通された。

看護師さんに長く待っていて疲れたでしょ?と気遣ってもらいながら「大丈夫ですか?(臓器を)見るのは…」と聞かれ、
「…んー…えーと…どうでしょうね?」と変な答えかたをした。けど、他に言いようも無い。
初めて見るんだし。

少しすると、執刀医の先生がよく出店で味噌田楽なんかが乗っていそうな発砲シチロールの皿を持って現れた。
そこに乗っていたのは、コーゾーさんの名前札が付いた臓器だった。
取り出した胃は、切って開かれている状態だった。
先生は手術用のゴム手袋をしたまま、その臓器を広げて説明してくれた

「これと…ここですね、大きな癌があって…大体、ステージ4ですね…転移は見える範囲は全て見ましたが、今の所は見当たりません…検査出して結果を見ないと何とも言えないですけれどね…」

コーゾーさんの胃は、肉屋で売られている、見慣れたものにしか見えなかった。
それにコーゾーさんの名前が付いている。
ついさっきまで、コーゾーさんの中で働いていてくれていた臓器だと言うことが、その名札で認識できるけれど、やはりそれは肉屋のウィンドーの中にあるホルモンに見えた。

こんなところで、見慣れた名前を見つけると言うのは奇妙なものだ。
この感じは、母の位牌を初めて見た時にも感じた。
母の名前の方が、死んだ身体を見ていなかったので強烈な違和感だったけれど…
「なんであんなところに、お母さんの名前があるんだろう」
と言った感じ

発砲シチロールのお皿の上にあるコーゾーさんの胃に、恐怖は無かった

検査結果は2週間後になる

再びロビーに戻り、次にコーゾーさんが麻酔から目を覚ますのを待った。
手術直後で無理に起こさないでも良いような気分になるが、
麻酔から覚めない方が大問題なので、とにかく待つ。それが手術の際の規約にもなっている。

また1時間ほどで呼ばれる。
手術直後のベッドは病室とは別の集中治療室のようなところで、
コーゾーさんは沢山管が付けられた状態でベッドの中で唸っていた。
生きる為の切腹をしたコーゾーさんは、えらく萎んで見えた。

「がんばったね」と声をかける
「……うぅ……うぅ…痛い…痛い…」と唸っている
突然、心拍数の装置のブザーが鳴り響いた
看護師さん二人が駆けつけてくる

「あれー?どうしたのかな?○○さん、大丈夫?」

ちょこちょこっと何か調整してすぐにブザーは止まる

「……痛い………痛い……」
「はいはい、…よし、大丈夫ね …あ、もう帰られても良いですよ、遅くまで疲れたでしょ?」

看護師さんにとっては日常の仕事現場で私は少し固まったまま見守っていた

「お父さんまた来るからね、がんばったね、お疲れ様、頑張るんだよ」

…と、お疲れ と がんばった と 頑張れ と、矛盾した事を同時に
私は苦しんでいるコーゾーさんに告げていた


外に出ると、雨は糸のように薄い線になっている
気温は低いまま


帰んなきゃ また2時間運転か…そのうち慣れるかな


どう言うわけか、
夜の街の灯が滲んでいる、濡れた道路がやたら
この日の記憶に、残っている


長い長い、ドライブをしている気分だった

どこかに帰っているような気が

何故かしなかった






画像は、老夫婦が倒れる前のコロナ禍で描いたコーゾーさんの水彩画
フレームは、百均の安いやつで済ませている

テーブルに沈んだように見える、変なデッサンの果物達 この中から数枚もらう